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人のために、ふるさとのために 新納忠元ものがたり

2021年05月25日

のために、ふるさとのために

 新納忠元ものがたり~

令和3年3月16日

 大口原田にある「忠元神社」は、新納忠元(にいろただもと)という侍が祀られている神社です。江戸時代はじめの薩摩藩で始められた、若者や少年たちの教育である「郷中教育」の教えの原点を作った人物です。みなさんが知っている西郷隆盛や大久保利通などもこの教育で育ちました。                                        

 では、その原点を作った新納忠元とは、どのような人物だったのでしょうか。

  

 

 

忠元の成長

 忠元は1526年(大永6年)、志布志場内で生まれました。13才の時、志布志が他の武士に攻められたため、新納家は親しくしていた親戚の島津氏を頼って、南さつま田布施にのがれます。新納家の先祖は島津氏だったのです。ここで、後に仕える島津義久、義弘と共に育てられ、学問や武道の修行に励みました。

 忠元は、20才のときに島津貴久にしたがって、初めての戦いにのぞみました。その戦いぶりは目ざましく、大きな手柄を立てました。ここ伊佐地方は、当時菱刈氏が治めていましたが、島津氏に鳥神尾の戦いで敗れ、大口城を明け渡し、菱刈氏は島津家の家来になりました。そして忠元はこれまでの功績が認められ42才の時に大口の羽月城、44才の時に大口城の殿様(地頭)になりました。

 

忠元と豊臣秀吉

 やがて月日が経ち、島津家は義久が当主になります。義久が率いる島津軍は、九州統一にあと一歩のところまで迫っていました。                            

 しかしこの時、全国をまとめようとしていた豊臣秀吉が1587年(天正15年)、島津氏を攻撃して滅ぼすためにたくさんの家来を引き連れて、九州に乗り込んできました。忠元は、大分からの秀吉軍に備えるため大口城へ帰りました。秀吉軍は、平佐城(薩摩川内市)の戦いで島津を攻め、島津義久は泰平寺(薩摩川内市)で降参しました。              

 この時、忠元は防戦の準備を進めていましたが、その忠元のもとへ主君である義久から

「私が和睦した秀吉と戦うのならば、私に弓を引く逆賊の行為である」

との言葉が伝えられました。その言葉を聞いた忠元は、降伏を決意して、秀吉の陣に向かいました。頭を下げ、ひれ伏す忠元に、秀吉が問いかけます。

「武蔵よ(忠元よ)どうだ、まだ私と戦うつもりか」

忠元はすかさず答えました。                        

「主君である義久公が指示すれば、いつでも何度でも戦いましょう。しかしながら、主君である義久公は真心をもって約束を守るお方です。約束を裏切ることは絶対にありません」

 これを聞いた秀吉は、その心構えに大変感心し、その場で刀と旅の衣服を与えたそうです。

また、こんな逸話が残っています。和睦成立後、曽木の滝を見物しに来た秀吉は、滝幅日本一を誇る雄大な景観に感嘆する一方で、滝つぼから突き落とされることを恐れ、忠元の袖をしっかり掴んではなさなかったそうです。

 

 

 

忠元の教え、郷中教育

 秀吉が全国を一つにまとめた後、朝鮮へ出兵して二度の戦争が起きました。忠元は70才近くで高齢のため、日本に残ることを許されました。この戦争で教え導く者が少なくなり、島津の領地ではだんだんと若者の気持ちがゆるみ、決まりが守れず生活が乱れていきました。忠元は、この様子を見て責任を感じ、心を痛めました。

 そこで、忠元が中心となり、「二才咄格式定目」という十項目の決まりを作りました。「武道の練習をしっかりしなさい。」「山坂に負けない体力をつけなさい。」「若者は格好ではなく、行動力だ。」など、まじめで、強くてたくましい姿勢をもってほしいという忠元の熱い期待がこの決まりに込められています。そして、人のため、仕える者のために尽くした忠元らしい内容であり、この教えは次第に人々の間に広がっていきました。

 

尊敬され愛された忠元

 忠元が大口城の殿様になって間もない頃、義久公は豊かな大口の土地を与えようとしました。しかし、忠元はそれを断り、農民のために荒れた土地を耕そうと思い木ノ氏(高熊山近く)の土地をくださいと申し出ます。忠元は、山に木をたくさん植え、用水路を引いて、荒れた土地を耕して一面に田んぼを作りました。牛尾川から引いていた水を十曽川からも引けるように作り変えました。「大口ふれあいセンター」に沿って流れている用水路は「忠元水路」と呼ばれ、その当時に作られた用水路です。     

                              

 忠元は、多くの人々が悲しむ中、85才で亡くなりました。そのときには、一緒に天国に行くお供をしたいと申し出る家来がいるほど、人々に尊敬され、愛された人でした。それは、戦いに強いだけでなく、頭がよく知恵があり、しっかりした生き方をしていたからです。そして何より心細やかで優しい人でした。大きな神社でお祀りしたいという、人々の強い願いで忠元神社が作られました。

 ふるさとのために力を尽くした新納忠元の心は、様々に形を変えながら現在の鹿児島県や伊佐市の教育につながっているのです。伊佐で育っていくみなさんを忠元公が空からずっと見守っていることでしょう。  (参考資料:「郷土伊佐の発展に尽くした 郷土の先人たち」伊佐市教育委員会発行)                          

 

 

二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)           ※【】内の青い字は現代語訳

 

一、第一武道を嗜むべき事  【まず武道を修練せよ

一、兼て士の格式手段なく穿儀致すべき事  【いつも武士道について討論せよ

一、万一用事に付きて、咄外の人に参会致し候はば、用事相済み次第、早速罷帰り長座致す間敷事       よその人とは用件外の長話(無駄話)をするな

一、咄合中、何色によらず、入魂に申合わせ候儀、肝要たるべき事  【組織内では十分に話し合いをせよ

一、朋党中、不作法の過言互に申懸けず、専ら古風を守るべき事  【友だちであっても悪口を言うな

一、咄合中、誰人にても他所に差越候節、その場に於て相分ち難き儀到来致し候節は、幾度も相中得と穿儀致し、越度これ無き様相働くべき事  【わからないときは自分勝手な行動をせず、話し合って行動せよ

一、第一は虚言など申さざる儀、士道の本意に候條、専らその旨を相守るべき事  【うそを言うな

一、忠孝の道は大形これ無きよう心懸くべく候、然しながら逃れざる儀到来候節は、其場をくれを取らざるよう相働くべき事、武士の本意たるべき事 【忠孝の道は、口先だけでなく、人におくれないように実行せよ

一、山坂の達者は心懸くべき事  【山坂に負けない体力を作れ

一、二才と申者は、落鬢を斬り、大りはをとり候事にてはこれ無くて、諸事武辺を心懸け、心底忠孝之道に背かざる事、第一の二才と申者にて候、此儀は、咄外の人たえて知らざる事にて候事             【二才(青少年)とは年齢・体格・服装ではなく、精神と実行力だ

 

右条々、堅固に相守るべし もし此の旨に相背き候はば、二才といふべからず。軍神摩利支天、八幡大菩薩、武運の冥加尽き果つべき儀、疑なきもの也   【以上の決まりは、かたく守り実行せよ。これを実行できない者は二才(立派な若者)ではないし、神仏の助けもないであろう

                                     慶長元年正月 二才頭

 

 

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