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伊佐市の伝「源頼朝の石塔」 #伊佐たび

2022年03月29日

令和4年3月28日放送
 NHKの鹿児島ローカルニュースで、伊佐市の伝「源頼朝の石塔」が紹介されました。

「鹿児島と頼朝第2弾  伊佐にも頼朝ゆかりの石塔が」(外部リンク、5/6更新)

令和4年2月28日付け記事

令和4年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」ということで、大泉洋さん演じる源頼朝がドラマの主要登場人物として活躍しています。

ところで伊佐市には、あくまで伝承ですが「源頼朝の石塔」と呼ばれる石造物があります。

 

この石塔は、伊佐市大口曽木の「広徳寺跡」(現在の曽木ふれあい公園内)にあります。

画像の中心にある大きな石塔が、伝「源頼朝の石塔」(以下、「頼朝の石塔」と略)です。

また、江戸時代に編纂された薩摩藩の地誌『三国名勝図会』によると、頼朝の石塔の左右の小さな石塔は、「鎌倉殿の13人」で佐藤二郎さんが演じている比企能員(ひきよしかず)と、丹後局(たんごのつぼね)の石塔であると伝えられている旨が、記録されています。

ここでいう「丹後局」は、「鎌倉殿の13人」で後白河法皇の寵愛を受けている、鈴木京香さん演じる「丹後局」ではなく、比企能員の義理のきょうだいで、源頼朝との間に子ども(島津家の初代忠久)を生んだという伝説がある女性の「丹後局」です。

これらは墓では無く、供養のための石塔=供養塔であると考えられます。

伝「源頼朝の石塔」について

「頼朝の石塔」の塔身には、「當(当)山本堂征夷大将軍/源頼朝公 源大居士塔」と刻字されています。

ただ、これは昭和6年(1931)に「改修移転」したものである旨が側面に刻字されており、建立当時の姿そのままの石塔ではありません。

『三国名勝図会』によると、江戸時代当時の石塔の形は「大五輪の石塔」と記録されています。また、江戸時代の時点で刻字の摩滅が進んでおり、当時の段階で判読できたのは「源大居士」という4字だった旨も記録されています。
現在の石塔は五輪塔の形では無く、刻字も含め昭和6年の改修などで現在の形になったようです。

また、比企能員と丹後局の石塔も江戸時代当時は「五輪塔」であったことが記録されています。
現在の小石塔は五輪塔では無く、特に、左の塔の塔身には室町時代の「応永3年=西暦1396年」という紀年銘が確認でき、移転時に石塔の部位の組み合わせも含めて変わってしまったと考えられます。

左端の石塔の塔身(拡大図)  ※ 応永3年=西暦1396年…丙子(ひのえね)

なぜ「源頼朝の石塔」が伊佐市に?

『三国名勝図会』によると、頼朝の石塔が所在した広徳寺の記録が火災で焼失しているため、その由緒は「分からない(由緒考ふべきなし)」としています。

ただ、『三国名勝図会』には、石塔が所在した広徳寺の開山(寺院を開創した僧侶)は「安寂」という僧侶で、「俗姓は源、幼名は乙若丸、源義朝の子といひ伝ふ」(旧漢字は新字体に変換)と記録しています。

源頼朝の父・義朝には平治の乱で敗死した時、今若・乙若・牛若の3人の幼い子がいて、それぞれ成長して阿野全成、義円、源義経と名乗りました。

つまり、源頼朝の異母弟である「義円(ぎえん)」が広徳寺の開山だ伝えられてきたのです。
「鎌倉殿の13人」では、義円は成河(ソンハ)さんが演じられます。

広徳寺に「頼朝の石塔」が所在したのは、この伝承に由来するのかもしれません。

なお、義円は源平合戦の序盤「墨俣川(すのまたがわ)の戦い」で戦死しており、義円が広徳寺に開山として係わった史実は無く、あくまで伝承であると考えられます。

しかし、「源頼朝の石塔」という伝承自体が、石塔の改修・移転を経て長年にわたり大切に引き継がれ地域の歴史となっており、伝承であること踏まえたうえで、地域の歴史を知る史跡となっています。

ちなみに、「鎌倉殿の13人」で、義円の同母兄である阿野全成(幼名:今若)を演じられるのは、伊佐市ゆかりの戦国武将・新納忠元の 子孫である俳優・新納慎也さんです!
⇒新納慎也さんが令和元年5月に伊佐市を訪問された際の様子はこちら(外部リンク)

 参考

伊佐市の「頼朝の石塔」の由来については、別の説もあります。

『郡山郷土史』によると、江戸時代の歴史家・伊地知季安が、現在の鹿児島市花尾町に鎮座する花尾神社(祭神:源頼朝、丹後局など)の由来等を著した『花尾社伝記』に、伊佐市の「頼朝の石塔」についての記述があるそうです。

それによると、明応8年(1499)、島津一族の島津出羽守忠明に薩摩国牛山(現在の伊佐市大口里周辺)が与えられた際、忠明が「花尾三所」として祀ったもの、と季安は記しているそうです。

参考文献
  • 「頼朝公御石塔」(『三国名勝図会』巻之四十二「曽木」)
  • 「広徳寺」(『三国名勝図会』巻之四十二「曽木」)
  • 『ふるさと散歩』(大口市郷土誌編さん委員会編、昭和548月)
  • 『郡山郷土史』(郡山郷土史編纂委員会編、平成18年3月)

伊佐市の伝「源頼朝の石塔」の場所

住所:伊佐市大口曽木2901番地付近 ⇒ Googleマップはこちら(外部リンク)
   曽木ふれあい公園 内

※ 駐車場は近くの「西太良地区コミュニティセンター」を御利用ください。

【画像】 曽木ふれあい公園 入口  ※ 石塔は自由に御見学いただけます。

お問い合わせ先

伊佐市役所 伊佐PR課 交流ビジネス推進係
電話:0995-29-4113   メール:isapr@city.isa.lg.jp

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