唐入りと伊佐市ゆかりの武将たち #伊佐たび
2021年06月16日
1 新納忠元
令和3年6月19日付けの南日本新聞に掲載された「かごしま戦国絵巻」(文:岩川拓夫先生、イラスト:東雲ののか先生)に、伊佐市ゆかりの武将・新納忠元(大口地頭)が、唐入りの際、老齢のため従軍を断念したエピソードが紹介されています。
伊佐市の忠元神社には、その無念の気持ちを詠った忠元の和歌「あじきなや~」の歌碑が建立されています。
この「あじきなや~」の和歌は、天正20年(1592)、島津義弘・久保親子が肥前名古屋城に赴く途上で大口城に立ち寄った際、新納忠元が別れを惜しみ、親子に贈った餞別の和歌です。
「あじきなや 唐土(もろこし)までもおくれじと 思ひしことは昔なりけり」
意味「やるせないなぁ (若いころは、例え)大陸まで出陣するとしても遅れを取らない、という気概があったのに、それも昔のことになってしまった(年老いて従軍できず無念である)」
なお、この和歌は戦時中の昭和17年(1942)、「愛国百人一首」に選ばれ、戦意高揚の一端を担った歴史もあります。
また、唐入りの遠征が長期化するなかで、国元の風紀の乱れを危惧した忠元が重臣たちと図り、郷中教育の基となる「二才咄格式条目」を立案し、士風の振興に努めた、とされています。
※ 近年の史学研究の成果では、忠元の時代の「二才咄格式条目」成立に異論も出されてます。
2 新納忠増
天正20年(1592)、新納忠元(大口地頭)に代わり次男・新納忠増が唐入りに出征し、後年、「忠増渡海日記」を記録に残しています。
それによると、大口出立の際、60歳過ぎの母(忠元の妻)から涙にむせぶ声で「たとえ、めでたく帰国できても、母はその時まで生きていないかもしれない」という言葉をかけられた旨が綴られています。
3 大島忠泰
島津羽州家の馬越(現在の伊佐市菱刈前目一帯)地頭・大島忠泰は、慶長3年(1598)、唐入りに従軍し、「大島久左衛門忠泰高麗道記」という記録を残しています。
それによると、渡海の途上、平戸を出たあと嵐にあい日本海を漂流し、九死に一生を得ています。
【画像】忠泰が創建した「龍王神社」(伊佐市菱刈前目)
4 梅北国兼
湯之尾(現在の伊佐市菱刈川北一帯)地頭だった梅北国兼は、天正20年(1592)6月、唐入りへの出征を途中で放棄し、佐敷城(現在の熊本県葦北郡芦北町)を突如占拠して反乱を起こします。
反乱自体は数日で鎮圧されますが、天下人・秀吉が推し進める唐入りへの反乱であり、乱への関与を疑われた島津歳久が後に自刃に追い込まるなど島津家中にも大きな影響を与えました。
【画像】梅北国兼が居城とした湯之尾城跡(伊佐市菱刈川北)
【参考文献】
『大口市郷土誌 上巻』大口市郷土誌編さん委員会編(1981年3月)
『菱刈町郷土誌改訂版』菱刈町郷土誌編集委員会編(2007年3月)
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