指定文化財
指定文化財
国指定文化財
1.郡山八幡神社
社伝によると、菱刈氏の始祖、菱刈重妙が建久5年(1194年)に、建立したと語り継がれている。現在の本殿は、永正4年(1507年)に島津出羽守によって再興されたもので、昭和24年に国の重要文化財に指定されている。
なお、昭和29年の改築時、本殿北東の柱貫から発見された大工の落書きに「その時座主ハ、大キナこすてをちやりて一度も焼酎ヲ不被下候、何ともめいわくな事哉」というのがあり、永禄2年(1559年)の年号が記されていることから、これは「焼酎」の字の記録として日本最古のものであり、伊佐が焼酎発祥の地といわれる由縁とされている。
2.箱崎神社本殿附宮殿
-
元寇の役の従軍者を代表して、丸山・淵之上・赤池の三家の祖先が筑前国(福岡県)の筥崎宮より分霊し市山に勧進した。
本殿の屋根は、桟瓦葺きの流れ造りで、本殿正面扉上の蟇股(かえるまた)の様式、虹梁(にじはり)などに室町時代の様式を思わせる特徴がうかがわれ、建築年代を確定する資料はないが、室町時代後期の建築様式を示し、16世紀初期に建築された本殿と考えられる。
また、本殿が奈良・平安以来の技術が主流にあるのに対し、本殿内の宮殿は、中世に中国から我が国にもたらされた新しい技術で建築されている。
3.祁答院家住宅
-
江戸中期における武家屋敷として現存する数少ない郷士住宅で、当時の姿を保っている貴重なものであり、昭和50年に国の重要文化財に指定された。
なお、屋敷の北西には建築時に植えられたと思われる樹齢300年を誇るイヌマキの大木があり、この住宅は創建300年と推定されている。
※無許可で勝手に見学されると住人の方に大変迷惑になりますので、見学等についての問い合わせは、伊佐市教育委員会までご連絡ください。
4.チスジノリ
-
湯之尾滝を中心とした川内川にみられる。チスジノリは淡水に生息する紅藻類の一種である。生育時期は11月ごろから3月ごろまでの冬季で、河川の流水中の岩・竹・木材などに付着して生える。形態は糸状で複羽状に分枝して成長し、長さは通常30~60センチメートルだが、なかには2メートルに達するものもある。触感は、きわめて柔らかく、粘りがある。色は暗紅紫色や黒褐色で、水中でゆれる姿が血管に似ていることから「血条苔」(けつじょうのり)の名が付いた。
県指定文化財
5.白木神社
応永15年(1408)の建立で、太秦元豊が天地長久、諸人快楽そして太秦一族の繁栄を祈って聖観音を勧請したものと伝えられている。本社殿は正面5.5メートル、側面5.5メートル、板敷きで1.1メートルの回り縁をめぐらしてある。もともと観音堂で、なかに1.8メートルの内陳をとり阿弥陀堂建設にならっている。明治初年の廃仏毀釈の難を逃がれるため、「白木神社」と呼びならわして今日にいたった。
6.白木観音像
白木神社に寄木造りの木造が安置されており、平安朝末期から鎌倉中期に行基上人の手になる仏像ではないかと伝えられ、安産の神として、人々の信仰が厚く、特に美女を生むと言い伝えがある。
明治2年(1869)の廃仏毀釈のとき、一時肥後天草に運ばれたが、同25年(1892)取り戻して安置された。
7.8.カワゴケソウ
カワゴケソウは水中で花が咲き、実をつけ繁殖するのが特徴で、水が綺麗で流れの速い河水の浅い水中の岩や岩盤に付着している進化した珍奇な水中顕花植物である。10月頃になるとスギゴケのような花茎を生じ、包まれた一雄芯一雌芯の花をつける。合併前の旧大口市・旧菱刈町それぞれで県の指定を受けている。
9.平出水王城大日如来田之神
大日如来の座像であるところが珍しく、高さ1.21メートル、蓮台、柱石、下台があり、大日如来信仰と田ノ神が結びついたことが実証される貴重な民俗資料である。
10.菱刈町の錫杖踊(下手錫杖踊)
下手水天神社奉納踊りの一つで白の襦袢・黒絣で修験者風のいでたちの踊り手が二列隊形で右手に錫杖、左手に山刀(カマ)を持ち、歌い手の「おせろが山は前は大川」の歌にあわせて、錫杖・山刀を振り鳴らしながら踊る。
11.湯之尾神社の神舞
天の岩戸の前で天照大神の御心を慰めようと舞ったものに起源する。この神舞は、1492年頃五穀豊穣・無病息災を祈願するために氏子たちにより奉納された。毎年11月23日の豊祭(ほぜ)の夜、奉納されている。
12.西南戦争 高熊山古戦場
西南の役で薩軍は熊本を包囲し、高瀬・山鹿・田原坂・植木などで戦ったが、戦い不利となり、ついに薩軍の一部は人吉・大口方面に退いた。明治10年6月、猛将辺見十郎太は苦戦を続けながら薩軍の雷撃大隊をひきい、熊本隊とともに高熊山に布戦した。山上に土塁や壕を築き官軍を迎え、6月18日から20日まで激戦となった地である。山項に当時薩軍が掘った県内唯一の望壕(ざんごう)跡や岩にたくさんの弾痕(だんこん)が残されている。
国の登録有形文化財
13.旧曽木発電所本館・ヘッドタンク
明治42年に「野口遵」によってつくられた水力発電施設で、九州南部の大規模煉瓦建築として最初期のものである。曽木の滝下流約1.5キロメートルの大鶴湖内にあり、毎年5月から9月頃に水面から姿を現す。発電所本館は発電機室と管理棟からなる煉瓦造りの洋風建築で、本館の北東上方の斜面には、水力発電の貯水施設であるヘッドタンクがある。
当時、この発電所でつくられた電力は、牛尾金山の動力源や近郊町村の電灯需要だけではさばききれず、余剰電力消化のため熊本県葦北郡水俣村(水俣市)にカーバイト工場が建設されることになり、その後の日本窒素肥料株式会社をはじめとする、日本の近代化学工業発祥のきっかけとなった。
市指定文化財
14.大住古墳群
昭和33年に寺師見国氏らにより調査され5世紀頃の庶民の墓といわれる。地下式板石積石室墓が多数発見された遺跡である。この墓制は、南九州独特のもので、川内川流域を中心に分布している。
15.オガタマノキ
モクレン科で別名トキワコブシともいい、本州から琉球・台湾の暖帯に分布し、常緑大喬木の陰樹である。高さ15.5メートル・胸囲6.4メートル・根回り9メートルで基部は空洞となっていて、樹齢は約800年程ではないかといわれている。
16.ノハナショウブ
ハナシヨウブの原種で、シベリヤ東部・朝鮮・日本全土で自生するが、湧水町三ヶ月池は国の指定にされている。当市では方々に自生しているが、宮人のノハナシヨウブを市の指定としている。
17.山野権現神社境内 田之神像
衣冠束帯の石造座像1体(灰色ちみつ石質)で、高さ50センチメートル・顔15センチメートル・で右手指を輪に組み、左掌に団子を持っている。裏面の刻文で明和3年(1766年)の作でこの型としては古いものである。
18.国玉大明神御神体木像4体
この御神体は大国主尊・火酸芹尊 少彦名尊・素盞鳴尊の4体の本像であり、その1体の裏面の墨書から、文明3年(1471年)に同社を勧請したものと推定される。
19.里七代 田ノ神像
武士型の定型的なもので、享保6年(1721年)6月と刻字してある。享保6年というと、田ノ神を建てるような風習が薩摩で発生してから20年そこそこの後のもので、県内でも年刻の判明しているものとしては古いものである。
20.平出水愛宕社勝軍地蔵像
祭神は日本武尊・御神体は乗馬の木像で、勧請は天正8年(1580年)平出水地頭伊知地備後守重広で一族の武運長久・息災延命・子孫繁栄を願って奉納されている。
21.毘沙門天木像
大口城の東北側にあって、大口城の鬼門を守る神として祭ったものと思われ、寛永4年(1627年)新納武蔵守忠元没後17年目、山下但馬守以下20数名が建立したと墨書にある。
22.大日如来馬頭観音石像
県指定の平出水王城田ノ神と同じ製作者と推定されるが、享保5年(1720年)の制作で王城田ノ神像より1年古い。本像は胎蔵界を表している馬頭観音で石像彫刻としても貴重であり、高さは61.5センチメートルである。
23.新納忠元の墓
新納忠元は44オの時、大口地頭に着任してから85才で没するまで、40年近い半生を大口地頭として過ごしている。又、薩摩の教育に今も脈々と残り、幾多の英才や優れた子弟を育てる基になった「二才咄格式定目」という教訓を作った。
24.大島重制石どう
高さ2.44メートル・笠の直径1.2メートル・竿の円周1.86メートルで県内でも大型である。天正13年(1585年)建立と推定されるがさだかではない。
なお、イボの神様で有名である。
25.木ノ氏 実盛供養塚
実盛は源平合戦の際、稲株につまづき転倒し敵に討ち取られ、実盛の霊が稲にたたりをなし害虫になったという。農民は、不作が続くと「実盛のたたり」と恐れ、霊をなぐさめるために供養塚を建てたと伝えられる。
26.天堂ヶ尾 関白陣跡
曽木天堂ヶ尾にある関白陣跡は、天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉が島津平定のあと、川内泰平寺から引き揚げる途中野営をし、大口地頭新納武蔵守忠元を引見した陣営の跡である。忠元は秀吉に最後まで反抗し、薩摩隼人の意気を発揮したが、主君島津義久・義弘の命で降伏し、断腸の思いで秀吉に会見した地である。なお、大正5年、東郷元帥に揮毫してもらった「新納武蔵守忠元碑」の記念碑が建立されている。
27.小川内関所跡
薩摩と肥後の国境にあり、出水の野間関や高岡の去川関などと共に薩摩の三関といわれた。亨禄年間頃(1528~1531年)から明治の初め関所が廃止されるまで、領外出日の要地として出入りを改めていた。
28.小川内供養塔群
小川内関所跡の東方100メートルの所にあることや、墓石の陰刻などにより、小川内関所開設当時の頃のものではないかといわれている。六地蔵・金剛石経供養塔・笠塔婆・墓石など14基が並べられている。
29.渕辺水神及び水神碑
碑文によると天保14年(1843年)の夏の大洪水で堤防が崩壊したので、肥後の石工岩永三五郎が、翌年に新堤防を築いたと記されている。その1年後、岩永三五郎は鹿児島市甲突川の五大石橋を築いている。
30.元町実業 田之神
元町実業自治会が保有し、20戸の家庭を持ち廻りしている。檜の木造りで、神官型、衣冠束帯、高さ16.5センチメートルの座像で裏に文化13年(1816年)と記されている。
31.原田下班田之神
原田自治会8戸を持ち廻りしている。カヤの木製で、神官型、衣冠のもので、高さは40センチメートルで享保6年(1721年)と記されている。
32.三州谷 大ケヤキ
ニレ科の落葉高木で高さ41.0メートル、根回り25.5メートルで、樹齢は1,000年を越えるといわれ、ケヤキとしては、九州一の呼び声が高い。
平成23年9月26日倒木により指定解除
33.エドヒガン(桜)
昭和52年、十曽渓谷の国有林の中で発見され、別名(姥彼岸)と呼ばれるバラ科で、樹齢は600年と推定される。
胸高周囲11.2メートル・樹高28メートル・根回り21メートルは、これまでの日本一の桜と称されていた「神代桜」を上回る日本で最大の桜といわれている。
34.新納家墓地
泉徳寺は、島津氏と肥前の龍造寺との戦いに出陣し、奮戦及ばず戦死した新納忠元の長男忠堯を弔うために、島津義久公から賜って以来新納家の菩提寺となっている。墓地は銀杏の下に4代祐久から第11代忠尊までの関係のある方の墓があり、すぐ上の山中に第12代から第18代までの墓がある。
35.諏訪神社 仁王像
金剛力士や蜜迹金剛ともいい、二王尊とも記されている。種子は「ウン」向かって右の口を開いた阿形を蜜迹金剛、左の口を開じた吽形を那羅延金剛と呼ばれているが、本来は1体の像の分身だといわれている。阿形の高さは1.93メートル・吽形2.15メートルである。
36.西原八幡神社 仁王像
金剛力士や蜜迹金剛ともいい、二王尊とも記されている。種子は「ウン」向かって右の口を開いた阿形を蜜迹金剛、左の口を開じた吽形を那羅延金剛と呼ばれているが、本来は1体の像の分身だといわれている。阿形の高さは2メートル・吽形2.15メートルである。
37.山野万徳寺跡 供養碑
山野上之馬場にある東光山万徳寺は今から400年程前に栄えた真言宗の寺の跡である。この寺跡に建てられている供養碑の上部円内には、梵字で真言密教の根本仏といわれる大日如来2体(ア)と(バン)が刻まれ、この碑に刻まれた梵字の形態は、他に類を見ない稀少価値の高いものである。
38.平出水太鼓踊り
島津氏の朝鮮出兵の凱旋祝いを記念する踊りといわれもので、江戸時代末期から明治時代初期にかけて出水地方から伝えられた華やかで勇壮な踊りである。
39.黒板寺跡及び歴代住職の墓
真言宗の寺で本尊は毘沙門天である。建久6年、鎌倉右大将頼朝が父の菩提のため、一国一寺を建てた。
この黒板寺は大隅の一国寺であった。
40.菱刈氏歴代の墓
永禄12年(1569年)第16代重広の時代まで、375年間にわたって北薩に勢力をはった豪族でありながら、戦乱興亡の激しい時代であったためか寂しい墓である。
41.町田久倍の墓
新納忠元と並ぶ島津家の重臣で、永禄12年、忠元のあとを受けて市山城主となり、のちに伊集院・伊佐の地頭を任ぜられた。
墓は周囲を石欄でめぐらし、石畳を敷きつめ、入口に石門が立っている。
42.荒田三段打ち分け
荒田集落に伝承されている三段打ち分けは幕末頃祁答院地方から伝わった太鼓踊りで秀吉の朝鮮出兵に従軍した島津義弘の戦勝祈願に踊ったのがはじまりと伝えられている。
43.田中種子島踊り
この踊りは江戸時代に田中に伝わり田中豊受姫神社の例祭(4月18日)に奉納踊りとして伝承されてきている。種子島の安城踊りの系統で、川内地方から伝わり、この地で育まれ実に勇壮で美しい踊りである。
44.平沢津供養塔群
南北朝から室町期の供養塔群で、方柱塔婆、五輪塔、室篋印塔を含んでいる。なかでも梵字を記した方柱塔婆は中世仏教考古学上、貴重な資料である。
45.箱崎神社の龍形石灯籠
海老原源左衛門(菱刈町本町)の龍形石灯籠五基の中の代表作品。明和元年(1764年)の作品で民俗資料として、また石像美術としてすぐれている。
46.愛宕勝軍地蔵乗馬像
瓜ノ峰の飯網神社(愛宕さま)の御神体で将軍地蔵の木像。宮ノ城仏師大磯可仙の作で色彩を施してある美しい像である。
高さ33センチメートル。
47.本城南方神社の田ノ神
武士型の田の神像で伊佐地方の田ノ神の特徴である衣冠束帯の典型的な石像である。
天明元年|(1781年)の年刻がある。
48.箱崎神社青面金剛庚申塔
海老原源左衛門の作。宝歴6年(1756年)青面金剛庚申塔の持ち物全部が彫ってあり豪快な手法に特徴がある。
49.馬形・人形・土版
田中津栗野・岡野の祭祀遺構から出土した5世紀頃の考古資料である。
・馬型 6点
・人形 6点
・土版 7点
50.太良城の跡
別名を平城、あるいは単に本城とも呼ぶ。この城は、菱刈氏の祖重妙がはじめて太良院につき、ここを居城としたので本城と称された。
太良城の太良は平城の平からきたものである。
51.前目麓オバッチョ踊り
島津義弘公の朝鮮出兵(慶長2年)の凱旋祝に創りだされたものとされ、南方神社の例祭(9月26日)奉納踊りとして伝承されている。踊りは鉦の音色と共に揺れ動く矢旗の動きは美しく勇壮な踊りである。
52.田中井堰及び隧道
田中井堰は通称「濱川井堰」とも呼ばれ、川内川の支流・重留川から取水し、田中・重留の水田約150ヘクタールに給水している。宝永元年(1704)に石堰が築かれたのがはじまりで、以来、数度にわたって改修を重ね、現在は自動式の転倒堰になっている。
53.岡野古窯跡群
昭和57年(1982)の白坂林道工事の際に発見された、県内では数少ない古代の須恵器生産窯である。5基の窯跡は地下式登窯で、発見時に窯全体が輪切状に破壊されたため、窯本体や窯にかかわる遺構などの詳細は不明である。
54.棟札(文明6年銘)
文明6年(1474)、南浦・南方神社の宝殿を一宇建立した際の棟札で、菱刈氏重・忠氏・梅徳丸の子孫の繁栄を祈念して奉納したものである。戦国時代の菱刈氏の足跡を知るうえで重要な資料である。
55.棟札(天正19年銘)
天正19年(1591)に藤原忠豊(佐土原領主・島津豊久)が奉納したものと考えられるが、忠豊が本城を領地としたことはないため、文禄4年(1595)以降、菱刈氏にかわって本城領主になった忠豊の弟・忠直が佐土原から移して奉納したとも考えられる。
56.扇橋(石橋)
大正8年(1919)、石工・留奥作久によって、市道楠原小川添線沿線の芋田川に架橋された眼鏡橋(石橋)で、市内に多くの石橋を架橋した同氏の代表作で貴重である。橋長は10.7メートル、道路幅4.5メートル。市内に現存する数少ない石橋の中でも特に優美な姿を残す。
57.永池棒踊り
由来の詳細は不明だが、地域では、永池集落の開墾の様子を踊りにしたものと伝えられている。
毎年6月下旬から7月上旬の集落のサナボリの日に永池・豊受神社で神事の後、南永小学校・校庭で奉納されている。
お問い合わせ先
- 伊佐市教育委員会社会教育課文化財係
電話:0995-26-1554 FAX:0995-26-1055
- こんな時には?